SMAP騒動はまだ甘い? 海外ロック史に残る“超ゴタゴタ”解散・脱退エピソード4選!
国民的アイドルグループSMAPの解散騒動が世間を大きく賑わせた。メンバーによる謝罪会見を受け、一部では「公開処刑」「ブラック企業のパワハラそのもの」「腐った日本社会の縮図」などの声も上がっているが、一芸能事務所の内紛が正真正銘の社会現象と化しているところに、改めて彼らの存在の巨大さを確認した人も多いのではないだろうか。
しかし世界に目を向ければ、SMAPに勝るとも劣らないゴタゴタ劇や悲運の末、メンバーの脱退やグループの解散に至ったケースが多数存在する。そこで今回は、後世に語り継がれる歴史的な脱退・解散騒動と題し、特に海外ロックミュージック界隈に注目して、過激で印象的なエピソードを厳選して紹介したい。
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■ボーカルのイアン・カーチスが自殺したジョイ・ディヴィジョン
コンプリートBBCレコーディングス
イギリスを代表するエレクトロ・ポップ・バンド、ニュー・オーダーの前身であるジョイ・ディヴィジョン。商業的に大成功を収めたとは言い難いが、ポストパンクの代表的存在であり、また後に世界を席巻することとなるオルタナティブ・ロックに多大な影響を与えたという点で、ロック史において極めて重要な存在である。しかし、彼らの実質的な活動期間はわずか3年と実に短い。母国イギリスにとどまらず、世界的にその革新的な音楽性と陰鬱で独特な世界観が評価され、初の全米ツアーを敢行せんとしていたその矢先、バンドのボーカルリストであり作詞家のイアン・カーチスが首吊り自殺をしてしまったのだ。
てんかんの発作やうつに悩まされ、愛人問題などでプライベートにも安寧がなく、さらには元より責任感の強い気質であったイアン・カーチスは、自身の諸問題がバンドの活動に支障をきたしていることにも思い悩んでいたらしい。バンドの特徴である陰鬱な詞の数々は自身の苦悩を源泉にしていたのかもしれないが、1980年、この異才は、まさにバンドのキャリアが大きく花開かんとするところで、縊死という最悪の選択をしてしまった。
■絶え間ない兄弟喧嘩の末に解散したオアシス
ホワットエヴァー Single
これは過激な解散劇というより、過激な解散“するする”詐欺かもしれない。1991年に結成し、94年に名盤“Definitely Maybe”でデビューを果たしたオアシス。次作の“(What's The Story)Morning Glory?”と合わせて、最初のアルバム2枚だけでも世界で3,000万枚を売り上げたモンスターバンドであり、ビートルズの再来とも謳われた。しかし、そのセンス溢れる名曲の数々以上に、ボーカルのリアムとギターのノエルが長年にわたって展開した暴言と兄弟喧嘩の方がメディアに大きく取り上げられたかもしれない。
ライブ中にリアムがドラッグを使用したことに端を発してステージ上で殴り合いの喧嘩、ライブ直前に兄弟喧嘩をしてその後のツアーは全てキャンセル(後にリアムは「マジであのときはバンドが解散すると思った」と述懐している)、酩酊してろくに歌えないリアムを殴打しステージから去ってしまうノエル、さらには喉の不調を訴えてその日の出演を辞退したはずのリアムが客席で飲酒喫煙する姿にノエルが大激怒、兄弟のどちらが“Don't Look Back In Anger”のボーカルを務めるかで大喧嘩になりノエルが一時期的にバンドを脱退……などなど、2人の愛すべきクズエピソードは尽きることがない。コトあるごとにメディアを賑わせつつも消滅の危機(?)を乗り越えて来たオアシスであったが、2009年、ノエルが正真正銘の脱退という形でついに本当に解散してしまった。どうせまたすぐ戻ってくるんだろう、と思ったファンも少なくないはずだが、2016年に至ってもなおバンドの再結成は実現していない。
■メンバーが飛行機事故死したレーナード・スキナード
Street Survivors
職業柄、移動が多いからであろうか。ミュージシャンと航空事故死は切っても切り離せない因果で結ばれており、時として世間を騒がせ、人々の心に暗い影を落とす。ビートルズのメンバーが多大な影響を受けたとされるロックンロールのパイオニアの1人であるバディー・ホリー、80年代にオジー・オズボーンのギタリストとしてロックギターの概念を押し広げたランディー・ローズ、名曲“Country Road”で有名なジョン・デンバー。いずれも航空事故で亡くなっている。そんな中でも特に悲劇的に、そして凄惨に散ってしまったミュージシャンとして、レーナード・スキナードが挙げられるだろう。
彼らの最大のヒット曲“Sweet Home Alabama”などにみられる、ロックとカントリーミュージックを融合させた(後にサザン・ロックと形容される)独特のサウンドは、70年代のアメリカ(とりわけ南部)を熱狂させ、今なお根強い人気を誇っている。そして、彼らを解散に追いやったのもまた飛行機事故であった。1977年、メンバーを乗せたツアー中の飛行機がミズーリ州上空で燃料切れを起こし、墜落してしまったのだ。ボーカルであるロニー・ヴァン・ザント、ギタリストのスティーヴ・ゲインズ、そしてゲインズの姉でバックコーラスのメンバーだったキャシー・ゲインズら主要メンバーが一瞬にして命を落としてしまうという、実に悲惨な事故であった。それは、彼らが新アルバムをリリースしてからわずか3日後の出来事だった。
■暴力、ドラッグ、感電……! メタリカをクビになったデイヴ・ムステイン
スラッシュメタル四天王といえば、メタリカ、メガデス、スレイヤー、そしてアンスラックスであるが、メガデスの創始者でありボーカル兼ギタリストのデイヴ・ムステインは、80年代初期、そのキャリアをメタリカのリードギタリストとして積み重ねていた。ギタリストとしての素晴らしい才能を周囲に大きく評価されながらも、それ以上に、度を越したアルコールやドラッグの問題、そして凄烈なまでに暴力的な素行を怖れられ、また異口同音に批判されていた。彼は「おれは酔っぱらうとバイオレントになるんだ」「飲んでる最中に何か気に食わないことでも言われたら戦争だったね」などと当時を振り返っている。
そんなある日、酩酊したムステインがスタジオのベースにビールを1缶分まるまる流し込み、そのことを知らずにアンプに繋いだメンバーが感電してしまうという事故が起きる(ムステイン曰く「奴は部屋の向こうまでぶっ飛んだ」)。結局、感電の被害者であるメンバーはバンドを脱退してしまうが、その後もムステインの素行は一向に改善することなく、行く先々でトラブルを起こし続け、残されたメンバーはバンドの健全な運営のためにムステインの解雇を決意する。そして1983年、ファーストアルバムのレコーディングのために訪れたニューヨークで、ムステインはメンバーから強制的に帰りのバスに押し込まれる形でクビになる。結果的には、彼はその復讐のためにメタリカを凌駕する最強(最凶?)のバンドを結成することを決意し、それが後のメガデスとなった訳であり、いったい何が幸いするかわからないものである。ちなみに、現在お茶の間の人気者のマーティー・フリードマン氏も、一時期メガデスに所属していた。興味があったら聴いてみると良いかもしれない。
いかがだろう。いずれのエピソードも、ロックンロールの歴史と文化を紐解く上で決して外すことのできない重要な出来事である。そして、世間を大いに騒がせている今回のSMAP解散騒動もまた、日本の芸能史に残る重大事件として末永く語り継がれることが予想される。後世の人々が、この平成という時代をどう理解し、解釈するのか。案外、現在の我々はその判断材料になり得る事件を「歴史の証人」として目の当たりにしているのかもしれない。引き続き、SMAPの解散騒動を注視していきたい。
(文=池上透)
http://dailynewsonline.jp/article/1080493/?page=all
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