江戸時代 粋な男と女の「色恋実話集」
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恋愛の主導権は女にあり!
江戸時代のデートのキーワードは“不忍池”。
「今日は不忍池の辺りに行ってみたいわ」
女からそんなことを言われた男は飛び上がって喜んだらしい。というのも、上野・不忍池周辺には“出会い茶屋”今でいうラブホテルがたくさんあったからだ。
「おいらの努力がついに報われる。今日はキメるぜ!」
女からラブホに誘うとは何と大胆な、と驚かれるかもしれない。
実はこの時代、恋愛の主導権は女が握っていた。というのも、徳川家康は江戸に幕府を開くにあたって、街道を整備し、堀や運河を造り、入り江を埋め立てたりと、町中で工事が進行した。そのために諸国から大勢の男たちが集められた。
そうした状況に対して女は圧倒的に少なく、希少価値だったのだ。
もちろん男からのナンパや付け文はあったが、それは少数派。デートの誘いやプロポーズも女からのことが多かった。男は女のご機嫌を取り、ひたすら尽くすしかなかったのだ。
ところが、そんな女たちにも苦労はあった。当時の娘盛りといわれる年齢は15歳から18歳くらい。20歳過ぎは年増と見られたから婚期を逃すまいと必死だ。
一方、男の10代、20代は職人見習いか商家の丁稚や手代。収入はほとんどなく、衣食住の現物支給。かろうじて自立できるとしても20代の後半で、まともに家族を養えるだけの収入を得られるのは40歳前後だ。しかも、結婚となると大店の奉公人などは主人の許可が必要だった。
この男女それぞれの都合が組み合わさると、どうなるか--。新郎40歳、新婦18歳という年の差婚は、ごくごく普通だったのだ。
「うらやましい」という声も聞こえてきそうだが、仮に亭主が60歳で逝ったとすると女房は38歳の女盛り。大年増とはいえ、当然再婚相手を探す。対象となるのは20代の若い男。「私が一人前の男に育てよう」というところだろうか。
そして、今度は20歳以上も年上の女房が逝くと、残された亭主は若い女房を後妻にする。そんな巡り合わせで、20、30という年の差カップルがそこかしこに。
もちろん、お互いに適齢期といった年相応の結婚もあったが、それら以外にも“金が取り持つ縁”というケースもあった。それが妾奉公。「貧乏職人に嫁いで苦労するくらいなら、妾奉公の方がずっといい」そんな割り切り娘も結構いたのだ。病弱で働けない両親に代わって家族の面倒を見るため、という娘もいただろう。
カネと時間のある大店の主人にしてみれば、年増の女房よりもピチピチの娘に目がいってしまうのは当然のこと。そんな男女の間を取り持つ商売もあった。愛人契約の口入屋、仲介業だ。
この妾奉公、今のような曖昧な愛人関係ではなく、しっかりと契約書を交わす。一般的に契約期間は2カ月。金額は2両から5両で、前金だ。女にしてみれば、商家や武家に奉公するのに比べてずっと高額。しかも、きちんとした住居も用意され、生活費も支払われる。その上、複数の旦那と契約を結ぶこともできた。当然、それなりの器量が必要だが、職業としてもしっかり認知されていたというわけだ。
もっとも、決して楽な仕事ではなかった。絶倫旦那に捕まってしまい、大変な目に遭ったという記録が残っている。
『歌川國虎 祝言色女男思』(学習研究社)には、--年寄り旦那と油断したら、とんでもない絶倫爺さん。毎晩とんでもない体位をさせられ、口吸いは口臭がひどい。こんな仕事、とてもじゃないけど続けられない--とある。もくろみが外れた妾も多くいたのだろう。
http://wjn.jp/article/detail/3096924/
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